安藤玉恵、宇野祥平、柄本時生、渋川清彦、でんでん、浜野謙太。この映画にも出ていたけれど、この辺の俳優さんの名前が連なっていると、映画の期待値がグンとあがる。映画を傑作たらしめるのは、バイプレイヤーたちにかかっているといっても過言ではない。この人も、その人も、あの人も! そんな風な映画体験がほんとうに楽しかった。
私にだって幸せになる権利はある。この映画が問いかけるのは、そんなシンプルで、当たり前のことだ。それなのにペトルーニャに勇気づけられ、鼓舞されるのは、いかに女性が生きにくさを抱え、抑圧されながら生きているかの証でもある。うだつがあがらないと思っていた主人公が、どんどん強く、美しくなっていく。私たちの目を盲目にしているものはなにかと考えさせられる。
何度か書いているけれど、人生で最も音楽に感動したのは、ハーレムの教会で聴いたゴスペルだ。今までまったく経験したことのない音楽がそこにはあった。それは癒しなんて生ぬるいものではなく「救い」そのものだった。魂の救済は、ゴスペルを歌い、神につながることでもたらされる。史上最高のディーバといっても過言ではないアレサ・フランクリンが、牧師だった父の前で、自らを育てた歌を、自らが育った教会で歌う。会場全体が歓喜し、涙し、生きている実感をわかち合う。彼女そのものが「神がもたらした奇跡」であることを証明する至上のライブドキュメンタリー。震える。
そういえば、得体の知れないヒトやモノをとんと見なくなってしまった。あの、驚きとも怖さとも異なる、自分では処理しきれない何かを飲み込まざるをえない「感覚」。そんな懐かしい感覚を存分に感じさせてくれる映画だった。すべてが解明され、説明され、評価されてしまう世界へのアンチテーゼ。「なに今の?」って瞬間がとっても愛おしくなってくる。
その生き難さ、満たされなさは、何によってもたらされるのか。誰によってもたらされるのか。共存すべきは他者ではなく、守るべきはプライドでもない。この映画が問いかけるのは、自らの意志で生きているかということ。生きるということは、自らの選択、その積み重ねなんだ。