自由であるということは孤独や寂しさを受け入れることでもある。ほんとうに自由な人となかなか出会えないのは、孤独や寂しさを受け入れている人が、ほとんどいないからだ。有村架純が演じる「ちひろさん」は、大人のようで子供のようで、純真なようで艶っぽく、冷たいようで温かい。グッと魅了されてしまうのは、彼女が何ものにも依存しない「孤高のひと」だからだ。
かつての舎弟・登と再会し、一瞬、気持ちが高揚するものの、ふと状況を察知し、さっと身を引く寅さんが、なんとも潔くて、カッコいい。身の程を知るとでもいえばいいのか、もはや死語になりつつある「弁え」、その「慎み深さ」にやられてしまう。同じ渡世人であっても、世代は変わり、サーカス一座のオートバイ乗り・トニーは弁えない。あくまで自己を貫く。第33作。いよいよ寅さんが生きにくい時代になっていく。
彼らは何をそんなに怖れたんだろう。無実の市民が警官に頻繁に殺されてしまうあの国に横たわっているのは、偏見と疑心、それらを生みだす「怖れ」だ。同じ国に生まれながら、黒人は白人を怖れ、白人は黒人を怖れる不条理。恐れは増幅し、やがて憎しみに変わる。社会の根底にある怖れから、彼らは一体いつになったら解放されるんだろうか。
9/15(金)公開『キリング・オブ・ケネス・チェンバレン』公式サイト
オリジナルの脚本であること。氣志團が主題歌を歌っていること。宇宙人の物語であること。グチャグチャてんこ盛りであること。叫びたいくらいに純真であること。それでいて、決して重くないこと。そして、家族の普遍的な愛の映画であること。そのすべてがグッとくる、とても気持ちのいい作品だった。すごく好き。こんな日本映画がもっと増えてほしいなと思う。
深田監督の映画はいつも痛い。ひりひりする。触られたくない傷口をゆっくりグリグリされるような痛みがある。人間のエゴ、狡さや弱さ、赦しがたいことを乗り越えてたどりつく「境地」。LOVE LIFEが、理屈や言葉ではなく、映画という表現、圧倒的な説得力をもって提示される。